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病める無限の芸術の世界

芸術に言い訳する方法ばかり考えています。

卒論を書いたことなど。

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めっきりこのブログを放置している間に卒論が完成していました。

岩切啓人. 2016. 「複製可能な芸術形式とその基準——ネルソン・グッドマンの区別を再定義する」東京藝術大学美術学部卒業論文.

芸術作品の存在論です。分析系です。それも、ネルソン・グッドマンという方の芸術作品の存在論の問題をやりました。グッドマンを選んだ理由は色々ある。まず、芸術作品の存在論で大家になっているのはグッドマン(Languages of Art)かウォルハイム(Art and its Objects)かインガルデンUntersuchungen Zur Ontologie Der Kunst: Musikwerk Bild Architektur Film)くらいしかいない。あと分野的に偉いことをやってる人は、スティーブン・デイヴィスやデイヴィッド・デイヴィス、グレゴリー・カリー、エイミー・トマソンなどなどいるが、大家感があんまりない。特に、ウォルハイムは結構偉いはずなんだけど、日本ではほとんど知られていないので選択できなかった(英語も難しいし)。インガルデンはぜひやりたいが、そのときは仏語受験するつもりもあったしで、やめた。勉強はしていたし、それで論文を書くつもりもある。もうひとつの理由として、僕自身があんまり芸術作品の存在論的カテゴリの話に興味がない。それは人工物一般で論じればよいだろうという気持ちと、芸術形式ごとに全然違うやろみたいな気持ちがあるからでもある。僕はもっと芸術特有の話、真正性とか複製とか贋作とかそういうところに興味があったので、結果的にグッドマンになった。グッドマンは芸術形式の区別を多元論的に見るのがすごいうまい人なので、結果的にはよかった。付言的な理由としては、芸術形式をいっぱい研究しているのと、グッドマンは描写の哲学でも仕事をしているので、それもよかった。これからさきの勉強につながりそう。

僕としてはそこそこよいものが書けたのでは?と思っていましたが、院試の面接で論証スタイルや議論の方針などについて色々突っ込まれました。論証をするときには敵をたてたほうが強度が高まるとか、否定した論者を最後再評価するとよいとか、普通の論文のスタイルのはずなんですけど、僕はそういうのがなかなかできてなかったみたいです。残念や。

中身はばらして論文化する計画があるので、ここでは公開しません。オートグラフィック/アログラフィック芸術という区別とはなんぞやという論文です。連絡をくれればお送りします。
連絡先:keitoiwakiri@gmail.com もしくは @ertb_ertb 

今はアプロプリエーション・アートだったり、JASRAC問題で著作権関係があつかったりなので、僕ももっと研究していけたらなと考えています。とくに、いまだにベンヤミンで複製を論じるのはもう時代遅れやということを声高に主張していきたいです。