病める無限の芸術の世界

芸術に言い訳する方法ばかり考えています。

セオドア・グレイチック「音楽と情動」

Gracyk, T. 2013. On Music. NY: Routledge.
Routledge から出てる Thinking in Action シリーズの音楽本。
勉強会で読んでます。
今回は第三章で、音楽と情動に関する章。

On Music (Thinking in Action)

On Music (Thinking in Action)

 

今回読んだ論文は、"Music and Emotion"で、音楽の理解に関するものです。

 

  1. 徴候と記号 Symptoms and Symbols
  2. 表現と表現的質 Expression and Expressive Qualities
  3. ウタツグミ The Song Brush
  4. 喚起理論 Arousal Theory
  5. カルリの悲哀・アメリカンジャズ・ヒンドゥスターニーのラサ Kaluli Grief, American Jazz, and Hindustani Rasa

 

 1では、情動一般について論じられる。
・情動の一般的性格:情動は志向的対象を持つ心的状態である。
・情動は何かを判断・評価する心理状態であり、表現行動[expressive behavior]は何かについてのものである。
・「情動」を志向的対象を持ち感情[feeling]を持つもの、「感情」は志向的対象を持つとは限らない。
・感情を持っていることと、実際に怒っていること(情動)はまったく異なる。 
・情動は、より長期的な感情であり、何かを志向するという点を欠く気分[mood]とも区別される。

ここらのことを確認したあとに、筋書きscriptingの概念が出てくる。
音楽や情動は、文化に筋書きされたものであると Gracyk は論じる。
そうすると、以下の様なことが成り立つ(らしい)。

1. 情動の表現は、生起している感情[occurrent feeling]を表現する必要はない。
2. (情動と表現の)分離可能性[detachability]が担保されれば、表現は建前[insincere]2でありうる。
3. 表現に見えるものが、まったく表現ではないという場合がある。

2以下では、「音楽は(任意の情動)である」といった情動的記述がどのようなものであるかに関して、色んな説が出てきて批判される。

まず、音楽は情動を持たないので、情動を文字通りには表現できないのが確認される。
音楽は、表現であるための必要条件のうち、1を満たしてないから。

1. ある情動を経験しうること
2. その内的状態に関して、外見的な徴候ないし慣習的な記号を与えうること 

そして、多分一般的な説でもありロマン主義によく見られるような、「音楽が(任意の情動)である」は、「音楽が作者の任意の情動を表現している」を意味する」説を否定する。

ブリティッシュケルトのリール曲は、どれだけ悲しい情動を持った作曲家が作ったにしても、一般的には悲しくは聞こえないだろう。

3では、形式主義が説明される。
「音楽が(任意の情動)である」は「音楽は、その音楽のパターンの構造によって任意の情動の表現的である」を意味する説。
これだと、ある音楽のパターンが情動的であれば、有識な聴衆たちは音楽を聴取しながら、「あ、それ知ってる、飽きたわ」[been-there, done-that, no-longer-interesting]状態になるので、美的関心を引かなくなる結果に終わる。
しかし、実際はそうではないので、音楽のパターンは自然に表現的なのではないだろうとしている*1

4では喚起理論が説明される。
「音楽が(任意の情動)である」は「音楽はわれわれに任意の情動を喚起する」という説。
喚起理論には二つのバージョンがある。

一人称 ver:表現的記述は、話者が自らの反応を報告していることを意味する。
三人称 ver:「音楽が悲しい」という記述が一人称の報告である必要があることを否定する。

それぞれ難点がある。

一人称バージョンは、われわれの記述をうまく捉えてくれるが、一般化しにくい。 ある生徒が《トリオ》を平穏だといい、もう一人の生徒が退屈だといった。 しかし、退屈だと答えた生徒が最初の生徒の平穏という記述を認めるかもしれない。

三人称バージョンは、自分のものでない予測した情動を記述に用いているとすると、正当でない推測を行うことが可能になる。

要約すると、喚起理論には大きな二つの難点があって、

  1. 自らの個人的な反応を反映させない情動ラベルを音楽に帰属させる。
  2. 他人が実際どのように反応しているのかを観察せずに情動を音楽に帰属させる。 

  ここまでで Gracyk は、全ての音楽に適用できるような音楽の情動理論はないと主張しているのだけど、それはそれでよいとしている。
少なくとも、芸術としての音楽である場合は、複数の観賞の評価軸が存在する。
ヒンドゥー美学の情動理論(ラサなど)でなければ、ヒンドゥー音楽の表現性は正しく理解できないし、ロマン主義の音楽はロマン主義美学でなければ、正しく理解できないかもしれないだろう。

というのを5でやってました。

*1:これは慣習とか外郭理論とかで Kivy の説をとれば説明可能ではあると思う。問題はあるかもしれない