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病める無限の芸術の世界

芸術に言い訳する方法ばかり考えています。

モンロー・ビアズリー「意図の誤謬」

分析美学 美学
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Wimsatt, W. K., & Beardsley, M. C. 1946. "The Intentional Fallacy." The Sewanee Review 54(3): 468-488.

元がこれで、初めはこれを読みました。
けどまとめる際には以下に入ってるやつでまとめました。
雑誌の方は結構無駄な例とかあって難解だったイメージなので、本の方がよいと思います。

Wimsatt, W. K., & Beardsley, M. C. 1954. The Verbal Icon: Studies in the Meaning of Poetry. University Press of Kentucky.

The Verbal Icon: Studies in the Meaning of Poetry

The Verbal Icon: Studies in the Meaning of Poetry

 

意図主義を叩いた偉い論文、けどやっぱり『分析美学基本論文集』に入ってるレヴィンソン以降の論文と比べると洗練度が全然違う。

逆にこれを読むとレヴィンソンの記述がえらい洗練されたものに見える(レヴィンソン自体の文章は洗練タイプではない)。 

昔作ったレジュメの抜き出しかつ訂正していないのでこのブログの中でもクオリティが低すぎる。

分析美学基本論文集

分析美学基本論文集

 

Ⅰ. はじめに

ビアズリーの立場
批評家の判断における作者(author)の「意図(intention)」は最近反論にあってきた。
この論文でビアズリーは、作者の構想(design)や意図(intention)は、文学芸術の作品の成功を判断するための基準として利用可能(available)でも望ましく(desirable)もないということを主張する。

・前提としての意図
「意図」という言葉をビアズリーが使うとき、それは「作者が意図していたもの」に相当する。
「詩人の行い(performance)を判断するために、私たちは作者が意図していたものを知る必要がある」。
意図とは、作者の心の中にある構想や計画のことであり、作品、彼の感じ方、彼を執筆させたものへの作者の態度に対して明らかな関係を持つ。

・これまでの議論を整理する
詩を判断することは、プリンや機械を判断することに似ている。私たちが制作者(artificer)の意図を察することができるのは、単にその制品(artifact)がうまくいっているからである。詩は言われたり含意されたりするものの多くが関わりあっているため成功することができる。
詩がリンゴのような物理的対象よりも個性や魂の状態を表現するという点で、詩の意味は確かに個人的なものである。詩の意味を完全に作者のものにしたとすると、推定される伝記的行動だけがそのモチベーションになっている。

・批評の立場
詩は、批評家のものでもなく、作者のものでもない。詩は大衆に所属する。詩について言われることは、言語学における言明と同様に精査の対象である。

Ⅱ. ロマン主義に対する批判

ロマン主義とはどのようなものか

意図に関する誤謬がロマン主義的なものであるということは、歴史的言明というよりむしろ定義である。
ロンギヌスが「崇高は偉大な魂の反響である」というとき、彼がロマン主義の先駆けであると気づく。

ゲーテの「構成的批評(constructive criticism)」に対する3つの疑問。
(1)作者は何をしようと計画していたのか?
(2)作者の計画は筋が通っていて(reasonable)目的にふさわしい(sensible)か?
(3)そして彼はそれを実行するのにどれくらい成功しているか?
2番目の質問を除外すると、ロマン主義の最高潮であるクローチェのシステムになってしまう。
そのクローチェ的なロマン主義がいきつくのは、意味や「魂」の分析であり、それはせいぜい美的でない歴史を作り上げるだけだ。⇒意図に関する誤謬を否定

Ⅲ. 制作と解釈の違い

・制作と評価の違い
これまで、詩は情動の表現だとか言われてきたが、そうではない。
ロマン主義的表現と作者が行う熱心なアドバイスとの間には食い違いがある。

しかし、これらすべては批評とは切り離された一つのわざ(art)であり、詩を評価する科学(つまり解釈)とは異なる。

・その例
詩の判断はそれらを生み出すわざとは異なる。

表現理論家であるデュカスが言うには、「美的」な芸術は感情の意識的な対象化であり、そこでは内因的な部分が重要な部分である。芸術家は、適切でないときにその客観化を訂正するが、このことは初期の試みが客観化に成功していないことを意味する。

しかし、成功しているかどうかを決める基準についてはデュカスは何もいわず、結局、芸術作品の評価は公共に開かれたままであり、作品は作者より外の何かによって測定される。

Ⅳ. 内的・外的証拠

・内的・外的な証拠
詩の意味に対して内的・外的な証拠がある。
(1)内的証拠は公的なものである。詩の意味論と統語論、言語に関する習慣的知識、文法、辞書、すべての文学、言語と文化を形作るすべてのものを通してそれは発見される。
(2)外的証拠は私秘的で特異的である。どのようにして、そしてなぜ詩人が詩を書いたのか、何を書いたのか、などの証拠になる。これは言語学的な事実として、これは作品の一部ではなく、日記や手紙や会話などと関係してはじめて生まれる。
(3)作者の性格もしくは言葉にある私秘的か準私秘的な意味に関する中間の証拠がある。言葉の意味は言葉の歴史であり、作者の伝記、言葉の使い方、彼にとって言葉がもつ関わりは、言葉の歴史と意味の一部である。
しかし、(2)と(3)は容易く線引できないほど些細な違いしかないこともあり、批評にとって困難を生じさせる。

伝記的証拠を用いることで、意図主義が起こったりはしない。
確かにその証拠は作者が意図したものの証拠だが、(発話の劇的な性格と)言葉の意味の証拠でもあるからである。

・実例2
ジョン・ダンの詩
地面の揺れは厄害と恐れをもたらし
人々は何が起きたのかと不思議がる
しかし、天球全体の揺らぎは
どれだけ大きくとも、無罪である



これに対して、卓越した天文学の暗示を指摘する。
たしかに、ドンは諸著作天文学に対する興味を示している。

(1)コペルニクス理論にのっとると、地球の動きは天の動きである。それは宗教的で哲学的な不安(fear)を引き起こすかもしれない一方で、語り手が望む現実的な動揺とは関係がない。
(2)地球には他の動きである地震があり、このような性質を持っており、詩の第二部と関係付けられる。
(3)「揺らぎ」とは地震とは反対のことを言っている。地震よりも大きいかもしれないが、地球の1年の動きよりも大きくはないからだ。
(4)何をし何を意味したかを見積もると、絶え間ない天の動きではなく地震のような出来事が起きたのだろう。
ドンの天文学の知識は、詩に余分な響きをもたらす。地動説、天動説をメタファーの核にしたのは、私秘的な証拠よりも公的なものを、外的なものよりも内的なものを好むということである。

Ⅴ. 意図に関する誤謬

「暗示」の問題は、誤った判断が意図に関する誤謬を引き起こしやすいものである。

それは地域的なものも問題になることがあるが、メモによって暗示が見つかる場合があり、それはメモが私たちを教えられるべきところへおくるガイドとして働くのか、それ自体で暗示の性格についてのしるしとして働くのか、いい疑問になる。

それらの書き手が存在していたため、ダンテやボードレールへの暗示は疑うこともないが、曖昧なエリザベス朝[作家]についての暗示について同様のことがいえるかは疑わしい。
メモと作品が結合していないとすると、言語記号は不完全なままである。

メモは、作者の意図に対する外的なインデックスとして正当化されるように思われるが、それはむしろ他の構成的部分として判断されるべきであろう。だが、そのように判断されたとき、詩の一部としての存在(reality)または詩の残りとの想像的結合が可能かどうか、疑問となる。

詩における暗示は意図主義という抽象的な問題を描く批評的問題の一つだったが、むしろより重要な説明でありうる。詩的実践としての暗示は、ロマン主義的意図主義的試みの極端な結果であった。
ある詩人がある詩人について考えていたかどうかについて、考える2つの方法がある。
(1)詩的分析と評釈を行う方法。それはある作者が暗示先の作家について考えていると意味をなすかどうか問う。そして、これが真に客観的な批評の方法であるとする。
(2)伝記的・発生的な問いを行う方法。詩人が意味しようとしたものや心に持っていたものについて批評家は書く。
しかし、(2)のように詩とは何も関係のないものに答えをだしたところで、それは無意味である。