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病める無限の芸術の世界

芸術に言い訳する方法ばかり考えています。

SEP:音楽哲学 第一章「音楽とは何か?」

分析美学 音楽哲学 美学

SEPのPhilosophy of Musicの中の1. What Is Music?の訳出です。これも1日1時間くらいでぼちぼち始めます(12/21)*1。眠れないのでやってたら終わりました(12/22)。

SEP:音楽哲学の訳出リスト
まとめ
第一章:音楽とは何か?(ココ)
第二章:音楽の存在論

 1. 音楽とは何か?

1. 1 「純粋」音楽を超えて

この項目のほとんどで、議論は「純粋[pure]」ないし「絶対[absolute]」音楽――非音楽的な構成要素[non-musical components]を全く伴わない器楽[instrumental music]――に焦点を当てる。以下で議論される研究を行った哲学者のほとんどもここでの焦点を合わせており、そうするには3つの理由がある。1つ目は、純粋音楽が最も難解な哲学的問題を提示することが多いというものである。例えば、標題的なテクスト[programmatic text]すら持たない楽曲[a piece of music]はどのようにして悲しさを表現するものであるのか、ということよりも、涙をさそうテクスト[maudlin text]のために書かれた曲[a musical setting]*2はどのようにして悲しさを表現するもの[expressive of sadness]であるのか、ということの方がよりわかりやすい。なぜなら、情動的表現[emotional expression]は何らかの方法でテクストから音楽へと伝達されるからである。2つ目の理由は、純粋音楽の場合、問題はより難解であるがその解決策はより簡単に見積もりやすい、というものである。責任が共謀者に分けられなければいけない時よりも、1人だけに罪の責任がある時の方が罪の責任を問うのが簡単なのとまったく同じように、音楽的表現性[musical expressiveness]の問題の解決は、純粋音楽が表現的であること[expressivity]*3を説明できるときに、より明確になる。3つ目に、純粋音楽の表現性は「非純粋」音楽の表現性においても重要な役割を果たすことがあるのも確かである。例えば、テクストはある歌曲[song]に表現性を与えうるだろうが、その歌曲の音楽的要素[musical elements]も同じ役割を果たすはずである。涙をさそうテクストが長調の軽快で[jaunty]上拍の旋律に書かれたら、ゆったりとした[plodding]*4哀歌に書かれた同じテクストと、総合して同一に表現的であること[the same overall expressivity]は明らかにないだろう。ここでは表現的であることを例として使ったが、同じ要点が音楽の理解[musical understanding]と音楽の価値[musical value]にも適用されるであろう。また、「非純粋」音楽の存在論についても興味深い問いがあるかもしれない。しかし、表現的であること、理解、価値についての問いと同じ種のものかどうかは明らかでない。

ロック音楽の普及を考慮したうえで、おおまかに理解したなら、歌[song]*5が現代の世界で聞かれる最も一般的な音楽の種なのはもっともである。映画[film]とテレビといった他の動画[motion picture]*6もまた偏在的である。歌の美学(Levinson 1987, Gracyk 2001, Bicknell 2005, Bicknell & Fisher 2013)、楽劇[music drama](Levinson 1987, Kivy 1988b, 1994, Goehr 1998)、映画音楽[film music](Carroll 1988, 213–225; Levinson 1996c; Kivy 1997a; Smith 1996)に関して行われた意義深い研究もある。(また Gracyk & Kania 2011の5章の節を参照せよ。混合的な芸術形式[hybrid art forms]についてより一般的にはLevinson 1984を参照せよ。)しかしながら、非純粋音楽の美学に関するさらなる仕事のための余地は豊富にあるように思われる。「ミューザク[Muzak]」はその他の偏在的な音楽現象[musical phenomenon]である。しかし、美学者にからは深刻な注意を向けられることはほとんどなく、反感を抱かせるための一例として主に使われている。ミューザクについて、心理学的ないし社会学的にではなく、哲学的に語るのに何か興味深いことがあるかどうかは今後の課題である。

1. 2 「音楽」の定義

音楽という概念の詳説は普通、音楽は組織された音[organized sound]であるという観念から始まる。そして、例えば人の演説や人間でない動物や機械が作る音[sound]といった音楽でない組織された音の例がたくさんあるので、次にこの性格付けは広すぎると言及するだろう。初めの観念を微調整しようとして哲学者が付け足した、さらなる2つの種の必要条件がある。1つは「音調[tonality]」ないし音程やリズムといった本質的に音楽的な特徴[essentially musical features]への訴えかけである(Scruton 1997, 1–79; Hamilton 2007, 40–65; Kania 2011a)。もう1つは、美的質ないし美的経験への訴えかけである(Levinson 1990b; Scruton 1997, 1–96; Hamilton 2007, 40–65)。これらの参照が明らかになるにつれて、どちらかの条件が単独で、もしくは両方同時に承認されるだろう。また、ジェロルド・レヴィンソンとアンドリュー・カニアだけが必要十分条件という観点で定義を受け入れていることを記すべきであろう。ロジャー・スクルートンとアンドリュー・ハミルトンは必要十分条件という観点での定義の可能性を拒否している。ハミルトンは明確に、自分の擁護する条件は不可避的に漠然とした現象の「顕著な特徴[salient features]」であると主張している。

1つ目の種の条件の主な問題は、全ての音が音楽的演奏[musical performance]に含まれることができ、そのために音の本質的に音楽的な特徴を特徴づけるのは見込みがないように思われることである。(われわれは保守的な交響曲の作者にとって利用可能な「調律されていない」打楽器*7の変化だけを考慮すればよいのではなく、レイフ・ヴォーン《南極交響曲》の気鳴楽器、ルロイ・アンダーソン《タイプライター》のタイプライター、オノ・ヨーコの《トイレ楽曲 / 無題》のトイレの例なども考慮にいれることもできるだろう。)この条件の擁護者は、この問題に打つ勝つために、音調に関する洗練された意図的ないし主観的理論へと向かった。もしある音の本質的に音楽的な特徴は音に内在的なものでないが、音は何らかの方法でそれが産出されたり受容される方法に関わっているとする。そうするとわれわれは「不可識別な」2つの音のうち1つだけを音楽として分類することができる。本質的に音楽的な特徴という理論の詳細によって、どれだけのアヴァンギャルド的「サウンド・アート[sound art]」*8を音楽としてみなすかが決定されるだろう。

もし音調条件ではなく、美的条件だけを承認するなら、やはり詩――非音楽的な美的に組織された音[non-musical aesthetically organized sounds]――という問題に直面するだろう。レヴィンソンは、この取り組み方をするが、組織された言語的な音[organized liguistic sounds]を明示的に除外する(1990b)。これは音の諸芸術*9の間でなされるさらなる区別があるのかという疑問を引き起こす。アンディ・ハミルトンは三分割の区別[tripartite distinction]を擁護している。ハミルトンは、サウンド・アートを音楽と文学の2つと対立させ、意義深い芸術形式[significant art form]として20世紀に確立されたものであると主張した(2007, 40-65)。これがハミルトンが音調的・美的条件の両者を承認する理由である。つまり、前者がなければレヴィンソンはこうした区別をすることができないのである。一方で、美的条件を承認することで、ハミルトンは例えば音階[scale]とミューザクを音楽の領域から除外しなければならない。カニア(2013a)は、音楽が必然的に芸術であると考えるのは、音楽を言語であると考えるのと同じく誤りであると示唆している。カニアは、言語と文学、描出[depiction]*10と絵画などを区別するのと全く同じように、音楽をその芸術的用法から絶対的に区別するべきであると主張する。選言的条件[disjunctive conditions]によって、カニアはハミルの組み合わせにさらなる区別を加える。カニアは音楽は「(3)(a)音程やリズムといった基本的な音楽的特徴をいくらか持つ、あるいは(b)そのような特徴のために聴かれるために、かつ(2)聴取されるために(1)意図的に産出ないし組織された出来事である。」*11と主張する(2011a, 12)。後半の選言は2つの不可識別な作品で、基本的な音楽的特徴を厳密に持たない作品を許容する。しかし、その2つの作品のうち1つは音楽であり、もう1つはサウンド・アートである。なぜなら、前者は複雑な仕方で接近するように意図されているからである。このように、カニアの取り組み方は、美的条件への訴えかけの代わりに、近年の芸術の定義の過程を利用している。

付加的な条件を議論してきたので、「組織された音」という基本的な観念に戻ってもよいだろう。ほとんどの理論家は、音楽が完全に音から[だけ]成っていると記している。ほとんど明らかに、多くの音楽は休止[rests=それ以外のもの*12]を含んでいる。無音*13は音楽の音を組織するためだけに機能すると考えるかもしれない。反論の1つに、理解力のある聴者[understnding listner]は音を聴くのと同様に休止を聴いている、というものがある(Kania 2010)。もう1つには、日常的な休止の方法で無音が構成されていない音楽の想定事例をあげることがある。ジョン・ケージの《4分33秒》は頻繁に議論される。しかし、この楽曲が無音ではない――その曲の内容はむしろその演奏の間に起こる環境音[ambient sounds]である――という広い同意もある。ともかく、スティーブン・デイヴィス(1997a)とアンドリュー・カニア(2010)の両者は、異なる根拠に基いて、ケージの楽曲は音楽でないと主張している。カニアは、「無音音楽」というラベルにとっての他の競争相手をいくつか考慮し、実際に現存の事例があると主張した。とりわけエルヴィン・シュルホフ《5つの演奏会小品》より《未来に》は、ケージの《4分33秒》を33年前に予言しているとした。

*1:クリスマスまでには終わらすぞゴラ

*2:musical settingの意味はわかるのですが訳語がわからん

*3:ちょっと前のexpressivenessとともになんか訳語があるのかもしれません。
僕の理解では、expressivenessというのは表現性一般を言う言葉で、それにmusicalがついていることで、これは音楽が行う表現ですよ〜ということ。イメージでは指定しなければ何を表現しているかは基本的についてまわってない。
一方expressivityは、何かが何か(具体的)を表現しているという感じ。モーツァルトの《レクイエム》は悲しさを表現している〜的な。music is expressive of~という感じ。

*4:訳語がわからないので情動の哲学と音楽学の双方から叩かれる

*5:歌と歌曲は適当に使い分けます。基本的にポピュラー音楽のときは歌

*6:動画ってのはmotion pictureだよ、ネットとか関係なく。picture画像もそうだけど、画像とか動画はネットの味が染みこんでる。取り払いたい。

*7:元ネタがあると思うのですがまったくわかりません。

*8:いわゆる音楽ではないが、音を用いている芸術の総称です。

*9:これは音楽もサウンド・アートも入りますよ

*10:depictionは描写が定番ですが、絵は何も写し取らんだろ感あります。そして最近のdepiction関連の文献でrepresentationが再現から表象になったのはなぜなのだ。

*11:順序逆になって申し訳ないです。まず意図的に産出ないし組織された出来事ってのが①。その産出ないし組織のところに②と③はかかっているという感じです。

*12:カニアの教養シリーズ。
休符としてもいいですが、sound対restだと音対休止、note対restだと音符対休符って感じがあるので休止にします。

*13:silentは沈黙と悩みましたが、別に喋るのが普通ってことはないので無音にしました。音と対比だしな。