読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

病める無限の芸術の世界

芸術に言い訳する方法ばかり考えています。

SEP:音楽哲学 第二章「音楽の存在論」

分析美学 音楽哲学 美学

SEPのPhilosophy of Musicの中の2. Musical Ontologyの訳出です。1日1時間くらいやります(12/14)。終わりました(12/16)。

SEP:音楽哲学の訳出リスト
まとめ
第一章:音楽とは何か?
第二章:音楽の存在論(ココ)

2. 音楽の存在論

音楽の存在論[musical ontology]は、[この世に]有る様々な種類の音楽的事物[musical things]とそれらの間にある関係についての学問である。この分野では、クラシック音楽作品の形而上学的本性とそういった作品の「真正な演奏[authentic performance]」とは何なのかという問題が最も議論されている。近年、ロックやジャズといった他の諸音楽様式*1[musical traditions]に関する存在論や、音楽の存在論に関する方法論や価値についての議論に対する関心も高まっている。(これらの議論に関するより詳細な概観としては、カニア 2008a, 2013b を参照せよ。)

2. 1 基礎的な議論

西洋クラシックの伝統における音楽作品[musical works]は、複数の事例 [instances](演奏[performances])を認めるという意味で、複数的存在者[multiple entities]である。そのため、そういった作品の本性についての議論の多くは、「普遍論争」についての議論の再現[recapitulation]*2のように読まれる。[これまでに]提示された[音楽の存在論の]候補の範囲は、基礎的な存在論の理論の領域に広がっている。われわれは、音楽の存在論者たちを実在論者[realist]と反実在論者[anti-realist]に分ける。実在論者は、音楽作品の存在を肯定し、反実在論者は音楽作品の存在を否定する。実在論反実在論より好まれているが、相対する実在論的見解が多くある。

観念主義者[Idealists]は音楽作品が心的存在者[mental entities]であると考える。コリングウッド(1938)とサルトル(1940)はそれぞれ音楽(そして他芸術の)作品を想像的対象[imaginative object]及び想像的経験であるとする。この種の見解に対する最も深刻な反論は二つある。(ⅰ)この見解は、作品を間主観的に触れられるものにすることができない。なぜなら、この見解では、《春の祭典》という名前の作品の数は、その名前の演奏に際して人々が持つ想像的経験と同じだけ多様だからである。(ⅱ)この見解は、作品の媒体[medium]を作品の理解に関与しないものにする。ある人は、《春の祭典》の実演と録音の両方に対して同じ想像的経験を持つかもしれないが、二つの媒体が美的に同等であるかどうかには議論の余地がある。

デイヴィッド・デイヴィスは、音楽作品は、他の全ての芸術作品と同様に、行為[actionsであり、具体的にはその作曲者の作曲行為である、と主張する(2004)。このように、彼はいわゆる芸術の存在論における「行為説」を検討している(より以前のこの見解の擁護者はグレゴリー・カリー(1989)であり、彼は芸術作品は行為のタイプであり、デイヴィスが同定したような個別の行為ではないとした)。音楽の存在論の理論を決定するのは、常にある程度、理論に先立つ直観[pre-theoretic intuitions]という観点から、理論の利益[benefit]と費用[cost]の間の均衡を見つけるという問題である。けれども、行為説はとりわけ困難な道を行く。なぜなら、行為説は、ある作品の事例は作曲者によって行われた[performed by a composer]何かしらの行為であり、演奏ではない、ということを含意するからである。われわれの直観に対するこうした損害を埋め合わせるためには、行為説の理論的な利益が非常に莫大でなければならないだろう。

ガイ・ロアボウは、音楽と他の複数芸術作品に対して新しい存在論的カテゴリーを提示している(2003)。ロアボウは以下のように主張する。様相的・時間的柔軟性[modal and temporal flexibility]といった、音楽作品や他の芸術作品にわれわれが帰属させる様々な事物は、現存する存在論のいかなる理論によっても説明されえない。さらに、こういった問題は芸術作品に対してだけ起こるのではなく、「種、クラブ、様々な人工物、そして言葉」に対しても起こる(p. 199)。そのため、新しい種の存在者を提示することで正当化されうる。それは、歴史的個体[historical individual]であり、楽譜や演奏といった物理的事物によって構成されるのではなく、それらの「中に具体化[embodied in]」されている。(この見解に対する批判は、ドッド 2007, 143-166を参照せよ。)

ほとんどの理論家は、これまで考察したものよりも、音楽作品に関してある種のプラトン主義的理論[Platonists theory]か唯名論的理論[nominalists theory]がもっともらしいと考えているだろう。唯名論者は、音楽作品は楽譜や演奏といった具体的個物(concrete particulars)の集合であると考えている(グッドマン 1968, プレデリ 1995, 1999a, 1999b, 2001, カプラン&マシソン 2006)。この見解は全く問題にならない存在者[=具体的な個物]にしかうったえないために魅力的だが、深刻な課題に直面している。音楽作品についてのわれわれの主張の多くが、可能な演奏の集合についての主張として言い換えられる。けれども、そういった主張のいくつかは作品について困難な言及を行っている。例えば、《春の祭典》のほとんどの演奏は――たとえ可能な演奏を含んだとしても――いくつかの誤った音符[wrong note]を含んでいる。このように、この言い換えの図式[作品をすべて演奏に言い換える図式]が、《春の祭典》には誤った音符が含まれている、というばかげた結論を避ける様を想像するのは難しい。この問題に対する解決策は、多様な演奏から独立したものとしての作品に訴えることにある。しかしこのような訴えかけは唯名論者にとって利用できないものだろう。(標準的な反論に対して唯名論的理論を擁護するより近年のものとしては、ティルマン 2011を参照せよ。)

音楽作品は抽象的対象であるとする、プラトン主義は近年最も人気の見解である。なぜなら、プラトン主義は音楽作品についての理論に先立つ直観を他の理論よりも尊重するからである。一方で、プラトン主義は最も存在論的に難解である。というのも、抽象的対象とはうまく理解できないからである。それにもかかわらず、プラトン主義は粘強であり、音楽作品がどのような抽象的対象なのかを軸として展開する議論の多くとともにある。いわゆる「単純なプラトン主義[simple Platonism](文学では単に「プラトン主義」として知られている)」は、作品が永久な存在[eternal existents]であり、時間上にも空間上にも存在しないとする(キヴィ 1983a, 1983b, ドッド 2000, 2002, 2007)。「複雑なプラトン主義[complex Platonism]」によると、音楽作品は人間の行為の結果として時間上に存在しはじめる。この見解では数多くの音楽実践の特徴が動機となっている。音楽作品は創造可能であるという直観、作品に対する様々な美的・芸術的性質の帰属、作品と演奏のきめ細やかな個体化(例えば、誰がその作品を作ったのか、どんな楽器であれば適切に演奏されるのかなど)がその特徴に含まれる。(インガルデン 1986; トマソン 2004b; ウォルターシュトーフ*3 1980; ウォルハイム 1968, 1-10, 74-84; レヴィンソン 1980, 1990c; スティーブン・デイヴィス 2001, 37-43; ハウエル 2002; ステッカー 2003, 84-92)。

これら全ての実在論者の見解には、反実在論者の見解が対立する。反実在論者たちは音楽作品といったものが有ることを否定する。この見解の初期に支持した者にリチャード・ラドナー*4(1950)がいるが、彼を消去主義者[eliminativist]または虚構主義者[fictionalist]のどちらで解釈するのが最善かは言い難い。この二つの反実在論的見解は現在も検討されている。消去主義者は、音楽作品といったものはなく、そのため音楽作品を指示しようとするのをやめるべきであると主張する。ロス・キャメロン(2008)はこの見解を擁護しているが、それはただ「存在論語[ontologese]」――存在論を行うときに用いる言語――という観点からだけである。キャメロンは、「数多くの音楽作品がある」といった日常英語の言い回しは、いかなる音楽作品がなくても真になりうる。(批判的議論として、プレデリ 2009とステッカー 2009を参照せよ。)虚構主義者によると、音楽作品についての言説の価値は真理ではない。そのため、言説の対象[subject matter]が存在しないにも関わらず、言説を放棄するのではなく、むしろ異なった見せ掛けの態度[make-believe attitude*5]を採用すべきである(もしくはおそらくわれわれはすでにそうしている)。(カニア 2008c, 2013bを参照せよ。)

このように、音楽作品が所属する基礎的な存在論的カテゴリーについての議論の多くは、「専門的な」問題[‘technical’ issues]へと向かっている。つまり、いまだ論争になっている、性質[properties]、因果関係[causation]、具体化[embodiment]などの本性についての一般的な形而上学的主張へと向かっている(例えば、ハウエル 2002, トリヴェディ 2002, カプラン&マシソン 2004, 2006, ドッド 2007, キャメロン 2008)。こうした事実のうちに、理論家の中には、音楽作品は文化的存在者[cultural entities]であり、そのため音楽作品の存在論的地位を明らかにするのに適切な方法論は一般的な形而上学の方法論とは極めて異なっているかもしれない、と主張するものもいる(ゲーア 1992, スティーブン・デイヴィス 2003c, デイヴィッド・デイヴィス 2004, トマソン 2006, カニア 2008c)。現在は、一次的理論化*6と同じくらい、方法論的問いについても関心があるように思われる。(近年の例として、カニア 2008c, デイヴィッド・デイヴィス 2009, プレデリ 2009, ステッカー 2009, ドッド 2010。)

2. 2 高位の存在論的問題

音楽作品は複数的存在者なので、その真なる本性を理解した時点で、作品とその事例[instances]の間にどのような関係があるのか知ることになるだろう。しかし、基礎的な議論は音楽作品が所属する基本的な存在論的カテゴリーについての議論なので、この議論を解決したとしても例化関係[the instantiation relation]に関わる多くの疑問が残されることになるだろう。例えば、バッハの《ブランデンブルク協奏曲第五番》を演奏で例化するために、チェンバロの使用が要求されるだろうか?チェンバロのような音をシンセサイザーで産出すると、[チェンバロの音と]まったく同じように働くだろうか?バッハの時代の他の鍵盤楽器[keyboard instrument]の使用はどうだろうか?また現代のピアノだとどうだろうか?音楽作品が言わば永久タイプ[eternal type]であると学んでも、それが必ず「真正な演奏[authentic performance]」という問題を解決する手助けになるとは限らないだろう。真正な演奏とは、おそらく最も議論された存在論的な問題であり、哲学者、音楽学者、音楽家、そして同様に聴衆の関心を得ている。

演奏における真正性をめぐる議論の中に広まっている混乱には、二つの源泉がある。一つ目は、真正性は単なる性質ではなく、色々な程度、様々な「ベクトル」*7で現れる関係である、と認識できないことである。あるもの[作品]は、ある点ではより真正であるが、他の点ではより真正でないかもしれない(スティーブン・デイヴィス 2001, 203-5)。二つ目は、「真正である」は「良い[good]」を含意するという意味で、真正性は評価的な概念であるという思い込みである。これが事実でないのは、真正な殺人が良いことでないという事実から明らかである(スティーブン・デイビス 2001, 204)。このように、われわれの価値判断は複雑な働きであろう。その働きは、われわれが様々な点から演奏を真正であると判断する範囲での、そして、われわれが様々な種の真正性に与える価値の、複雑な働きである。

これまで議論されてきた中心的な種の真正性は、作品の例化[instantiation]に関する真正性である。ほとんどの人が、そのような意味での完全な真正性は、正しい音程を正しい順序で産出すること[the production od the right pitches in the right order]を要求する、ということに同意している。純粋な音響主義者[pure sonicistsはこれが十分[条件]であると主張する(例えば、キヴィ 1988a)。音色の音響主義者[timbral sonicistsは、このような[正しい順序で並んだ正しい]音程は作曲者の楽器編成[composer's instrumentation]を反映する音色も反映していなければならない、と主張する(例えば、ドッド 2007, 201-39)。楽器主義者[instrumentalistは、そのような音[sound]は楽譜で詳述された種の楽器で産出されなければならないと主張する(例えば、レヴィンソン 1990d)。議論のほとんどが、どのような種の美的・芸術的性質が音楽作品に本質的[essential]なのかをめぐるものである。もしバッハの《ブランデンブルク協奏曲第五番》の澄んだ質感[limpid textures]がその作品に本質的なものであるなら、チェンバロの代わりにグランド・ピアノを使ってその作品を真正に例化することはできない。このように、この議論は美学におけるより広い議論、つまり、音楽やその他の芸術の形式主義者[formalists(あるいは経験主義者[empiricists]や構造主義者[structuralists])と文脈主義者[contextualistsの間の議論を反映している。形式主義者は、ある作品の最も重要な性質は内在的な性質であり、作品が創造された歴史的・芸術的文脈を知らない聴者にも到達可能である、と信じている。そして文脈主義者は、作品はその創造の文脈と強く結びついていると信じている。スティーブン・デイヴィスは、強い文脈主義に賛成している。デイヴィスは、特定の楽器編成[particular instrumentation]が作品の完全に真正な例化に要求されるかという疑問には、単一の答えを与えることができないと主張する。作品は、特定の慣習[certain conventions]の内で働く作曲者の指定[specification]*8の結果としての、存在論的に「より厚い[thicker]」ものか「より薄い[thinner]」ものである(1991, 2001)。特定の作品が、真正な演奏の性質をより多く詳述すればするほど、その作品は厚くなる。こうして、いくつかの作品(典型的には西洋音楽の歴史の初期の作品)にとっては楽器編成は柔軟なものであり、一方で他の作品(例えば、ロマン主義交響曲)にとっては完全に真正な演奏のために極めて詳細な楽器編成が要求される。

何が真正性を構成するのかという疑問に加えて、達成可能性[attainability]と価値[value]をめぐる議論もある。真正性の達成可能性を問う人は、ある作品の創造[の時点]からの歴史的距離を指摘する(ヤング 1988)。われわれは、もはや作品が記録された記譜法[the notation in which the work is recorded]を読み解くことができないかもしれず、作品が書かれた楽器編成を構成したり、それで演奏したりできないかもしれない。もしそうだとすると、完全な真正性は達成不可能である。しかし、われわれはこれらの問題について何も観念がないというわけではない。われわれは部分的な真正性[partial authenticity]を達成するかもしれない(スティーブン・デイヴィス 2001, 228-34)。真正性の価値を問う人は、しばしば作品の例化[work-instantiation]以外の種類[の真正性]を対象にする。例えばある人は、[当時の]音楽家は現在の音楽家ほど例化するための技術がなかった[not as highly skilled as]ことを根拠に、作品が作曲された文脈で生じた演奏の音を真正に捉える演奏を産出する価値を疑問にするだろう(ヤング 1988, 229-31)。けれども、このような論争は作品の例化という価値について何の帰結も導いていない。われわれは作品の真正な演奏を達成するかもしれないが、われわれがある作品の[生まれた時代の]同時代人たちが聴取したように作品を聴取するだろうという観念は、希望的観測[wishful thinking]である、と主張するものもいる。なぜなら、われわれが埋没している音楽文化[musical culture]は、逃れることのできない聞き方[ways of listening]をわれわれに押し付けるからである(ヤング 1988, 232-7)。このように、こうした真正性の要点は疑問視されてきた。それに対して、われわれは現代の作品[contemporary ones]よりも、歴史的作品[historical works]を観賞するのによりよい位置にいる可能性だけを検討するのではなく、われわれが歴史と世界全体にある様々な種類の音楽を享受するときに見られる驚くべき柔軟性も検討することができる(スティーブン・デイヴィス 2001, 234-7)。

(真正な演奏の議論の素晴らしい概観としては、スティーブン・デイヴィス 2001, 201-53. を参照せよ。作品の例化以外のものに関する真正性の探求としては、キヴィ 1995, グレイシック 2001, ビックネル 2005, 2007a. を参照せよ。[存在論の]基礎的な議論のように、近年の研究は方法論的展開をしてきた。スティーブン・デイヴィス 2008, ドッド 2010. を参照せよ。)

基礎的な議論から独立する二番目の領域は、比較存在論[comparative ontology]の領域である。様々な歴史の期間のクラシック作品が存在論的に多様であるのと同じく、同時代の様々な様式[traditions]の作品も異なっているはずである。セオドア・グレイチック*9は、ロック音楽作品の事例は演奏ではないと主張する。むしろ、作品は適切な機器[appropriate device]で録音[recording]のコピーを再生すること[playing]で例化される(1996)。スティーブン・デイヴィスは、[ロックの]作品は異なる種の演奏のためのものではあるが[ロックという]様式の中心では作品は演奏のためのものであると反論し、ロックはグレイチックが認めるよりもクラシック音楽に似ていると主張する(2001, 30-6)。彼の基本的な枠組みの中にライブ演奏[live performance]と演奏技術の役割を見つけようとすることで、グレイチックを擁護することもできる(カニア 2006)。

ジャズの存在論の研究は、即興[improvisation]の本性、とりわけ即興と作曲[composition]の関係を軸として展開してきた(アルパーソン 1984, 1988, ヴァローン 1985, ブラウン 1996, 2000, ハグバーグ 1998, グールド&キートン 2000, シュテリット 2000, ヤング&マシソン 2000)。音楽に関する哲学的議論という作用域を拡大せずとも、即興は全ての音楽が既に作曲された作品[pre-composed works]の演奏ではないということを思い出させてくれる便利なものである(ウォルターシュトーフ 1987, 115-29)。しかし、古典的な協奏曲[classical concerto]の即興的なカデンツァ[improvised cadenza]の演奏に見られるように、即興はある作品の文脈の中で起こりうる、ということは注記しなければならない。即興と作曲の区別は普通思われるほどは意義がないと主張する人もいる(アルパーソン 1984)。そしてある人は、全ての演奏は即興を要求すると主張する(グールド&キートン 2000)。しかし、後者は即興の可能性[possibility]をある種の音楽的性質、例えば、「表現的[expressive]」な性質ではなく「構造的[structual]」な性質にまで制限してしまう(ヤング&マシソン 2000)。しかし、これらの議論は説得的でない。普通、この議論は「作曲」や「演奏」のように、用語の曖昧な使用へと向かうか、もしくは、楽譜からの逸脱、制限された集合の変奏[variation]、「表現的」性質といった観点から即興を定義することで、論点をはぐらかす。

ジャズが必ず即興的であるというわけではなく、ほとんどのジャズ演奏には先立つ作曲的過程[compositional process]があるが、ジャズにとっての即興の中心性は音楽の存在論者に課題を提示する。ある人は、ジャズ作品は存在論的にクラシック作品に似ている――複数の異なった演奏のために作曲される[という点で]――と主張するかもしれない。しかし、ジャズ作品はより薄い傾向にあり、即興の余地をより多く残している(グールド&キートン 2000, ヤング&マシソン 2000)。ある作品を他の作品と合成せずに、作品を詳述するのは困難である。なぜなら、旋律[melody]をトークン化することは要求されておらず、多くの作品が同じ和声的構造[harmonic structure]を共有しているからである。結果として、演奏はそれ自体作品であると主張するものもいる(アルパーソン 1984; ハグバーグ 2002; スティーブン・デイヴィス 2001, 16-19; 2003, 156)。ここでのある問題はクラシック音楽と均等な問題である。ジャズ演奏がそれ自体で音楽作品であるなら、クラシック音楽の演奏に対して[も存在するはずである]作品という地位を否定するのは難しい。これは、われわれが普通考える必要なものを超えて、作品を増加させる(multiply)するように思われる。三つめの可能性として、ジャズにおいては作品はなく、演奏だけが有るというものである(ブラウン 1996; 2000, 115; カニア 2011b)もし「作品」が評価的用語だとすると、これは直観に反する[counterintuitive]が、それが事実なのかは明らかでない。

「高位」の存在論的議論の三つめの話題は、旋律、和声、リズム、といった音楽作品の要素の本性、そしてどのようにそれらの要素が集まって複合的全体[complex wholes]を形作るのか、というものである。現在では、ロジャー・スクルートン(1997, 19-79; forthcoming)とスティーブン・デイヴィス(2001, 47-71)しかこのような疑問をについて掘り下げて記していない。しかし、もし音程やリズムといった音楽の定義において「基本的な音楽的特徴」に対する訴えがなされるならば、彼ら[の考察]は音楽の本性そのものを理解するのに重要になるだろう。

2. 3 音楽の存在論に対する懐疑主義

哲学者には、音楽の存在論を研究する発展性[possibility]と価値について懐疑主義を表明しているものもいる。アーロン・リドリー(2003a; 2004, 105-31)は、音楽の存在論は時間の無駄であると主張している。彼の主張は、(ⅰ)音楽には本当の存在論的難問はない、(ⅱ)音楽の存在論は音楽の価値判断に依存する、そのため、(ⅲ)音楽の存在論は音楽美学になんの含意も持たない、というものである。最初の主張は、それ自体で難問である。なぜなら、何か簡単で利用可能な答えがあるなら、音楽の存在論について哲学者の間でこのような不同意がある理由自体が理解しがたいからである。さらに、リドリーは簡単と思われる音楽の存在論を述べているのではなく、彼の議論を通して独立していて[substantive]異論の多い存在論的仮定をたてている。彼の二番目の主張は疑わしい。なぜなら、他の多くのものと同じように、ある人が何かの価値を正しく判断できるのは、その何かが本当にそうであるところの種という観点から判断したときだけである(ウォルトン 1970, 1988)。そして、音楽作品や演奏などがそうであるところの種は、まさしく音楽の存在論の中心的な疑問だからである。もしリドリーが二番目の主張に関して誤っているとすると、彼は三番目の主張に関しても誤っている。しかし、音楽の存在論のうちのいくつかの議論は、他の議論よりも、音楽の価値についての疑問と結びつかないものであるという主張もありうる。例えば、真正性な議論は様々な演奏の相対的価値[relative value]についての疑問と密接に関連している一方で、音楽作品の基礎的な存在論的カテゴリーをめぐる議論はこの居疑問に関してはより中立的なように思われる。(リドリーの会議守秘についてのさらなる議論としては、カニア 2008b, バーテル 2011を参照せよ。)リー・ブラウン(2011)は、ロックやジャズといった特定の音楽様式についての存在論的理論に関しては、同様の結論を支持している。議論はカニア(2012)とブラウン(2012)で続いている。

アミ・トマソンは特定の芸術の存在論の議論についてより慎重な懐疑主義[more measured scepticism]を表明している(2004a, 2005, 2006)。トマソンは、「交響曲」といった芸術種類辞[artistic kind-term] を基礎付ける(そして再び基礎づける)ことには、あるものがその名辞で選び出そうとしている事物の種類を同定するのに問題があると主張する。(これはより一般的な「として問題[qua-problem]」の例である。例えば、車を名付けるとき、フロントガラスや、その車の一次的な部分などではなく、全体的事物を名付けるのにどのように成功できるのかという問題がある。)このように、ある人は、選び出されている事物の同一性条件と持続条件[the identity and persistence conditions]を決定する基本的な存在論的種[basic ontological sortal]を心のうちに持っているはずである。芸術の種[art-kinds]は広まった社会的実践[social practices]を通じて決定されているので、基本種[basic sortal]を発見する方法は、芸術実践を調査することである。トマソン懐疑主義は、われわれの芸術実践はいくつかの疑問に関してはぼんやりしているか不完全であるという見解から生じている。例えば、ただある作品を演奏するのに失敗する以前にどれだけの音符を間違えていいのか、という疑問がそれにあたる。一方で、こうした質問への解答はわれわれの実践によってはっきりと明らかにされるものであるとトマソンは言う。例えば、音楽作品が創造されているという実践によって明らかにされる。こうして、トマソンの理論はいくつかの問題については懐疑的だが、その他の点に関してはまったく逆である。そして、プラトン主義のようないくつかの理論を無視している。

トマソンの見解への不安の一つには、芸術実践[artistic practice]はトマソンが提示するよりは乱雑[messier]ですらあるかもしれない、というものである。もし芸術実践が、その疑問に対して、ぼんやりとしているか不完全な解答でなく、矛盾する[contradictory解答を示すとすると、おそらく最良にその実践を反映して総合的に再構成する理論を提供するのは、存在論者の仕事である(ドッド 2005, 2010)。この見解は様々な方向から批判されてもいる。芸術実践が、音楽作品は抽象的に創造されることをはっきりと含意しているとしても、抽象的に創造される事物はないことがもっともらしく示されると、その実践は誤っているはずである。この戦略をとると、再び音楽作品の本性についての疑問、そして形而上学の論争の伝統的形式が文化的な領域にも適当なのかという疑問が生じる。(上記の2.1 の終わりの参考文献を参照せよ。)

*1:ここ様式と訳すのが(主に美術界隈の)色々なところから文句があると思いますが様式が一番あってると思います。宗教の流派(仏教における禅とかそういうの)とかいうのとほとんど同じ使い方。

*2:この記事アンドリュー・カニアが書いてるんですけど、ここでrecapitulationを使うってのはこう教養を感じますよね…

*3:ウォルターストーフが定訳のようですがシュトーフの方が近いのではないか。

参照:A Conversation with Nicholas Wolterstorff - YouTube

*4:誰感

*5:テクニカルタームになったメイクビリーブを避けるとごっこ遊びがあらわれてごっこ遊びを避けるとメイクビリーブがあらわれる。

*6:これよくわからないんですが、作品という立場に対する理論が一次的ということでいいのだと思う。

*7:ここ読めてない可能性が非常に高いです。

*8:specificationの訳語には昔から迷っていて、中身としては楽譜やその他に作曲者がどれくらい詳細に規定を与えているかということです。

*9:グレイシックが定番だと思いますが、これ聴く限りチックっぽいですね。
Theodor Gracyk - The Taste of Metal - YouTube