病める無限の芸術の世界

芸術に言い訳する方法ばかり考えています。

ジェニファー・ロビンソン「音楽における情動の表出と喚起」

Robinson, J. 1994. "The expression and arousal of emotion in music." Journal of Aesthetics and Art Criticism, 13-22.

音楽作品の情動に関して、これまでの議論を整理・批判し、新たな論をたてた古典的論文です。

はじめに

ロビンソンが持つ二つの前提
①音楽は情動質(emotional qualities)や、悲しさ、気高さ、積極性、柔和さ、穏やかさといった人間の性格的質(qualities of human personality)を頻繁に表出する。
②音楽はわれわれの情動に関して頻繁に作用する。
ここから引き出されるロビンソンの疑問は以下のようになる。
われわれが情動の表出を音楽に帰属させる根拠は、聴取者における同様の情動の喚起と同定されうるか?

 

二つの説の批判

おおまかにいってキヴィ、ランガーの認知説とウォルトンの想像説がここでは批判されます。

キヴィの細かい情動の認知説

ピーター・キヴィの The Corded Shell(1980)における説明によると、旋律、リズム、コードといった音楽的要素(musical elements)は以下の二つの理由である感情(feeling)*1を表出*2する。
  1. 音楽的要素は、ある種の表出的な人間の行動(expressive human behavior)と同じ「輪郭(contour)」を持つ。そうすると、何かしらの表出に適合するものとして(appropriate to the expression of something or other)聴取されるため、音楽的要素は何かしらの表出的なもの(expressive as something or other)として聴取される。もしくは、音楽的要素は、ある特定の文脈において、そのような表出的輪郭を形成するのに貢献する。
  2. 音楽的要素は、習慣(custom)あるいは慣習(convention)のおかげで、表出的である。習慣や慣習は表出的輪郭との繋がりに起源を持つ。例えば、短三和音は慣習によって「悲しい」が、表出的輪郭の一端として始まったはずである。

しかし、このキヴィの説明は、テクストのある音楽(オペラとか)に関してばかり例をあげており、音楽における情動に関して説明していない箇所を多く残している。

ランガーの発達する力動的質としての情動説

スザンヌ・ランガーの Philosophy in a New Key(1957)は、聴取者ではなく音楽のうちに情動的質が見られることには同意するが、ハンスリックにしたがった情動理論に訴える。
音楽が表出するのは何か(ここに情動的状態も含まれる)の力動的質だけであるという主張にそって、音楽で特定の情動が表現されることはなく、感情的質の力動的発展だけが表現されるという(ハンスリック参照してないのでここらへん適当です)。
ランガーが強調したのは、長大な楽曲を通じる感情の構造の発展(development of structures of feeligf)である。
 
キヴィとランガーは、お互いが無視したものをお互いに強調しあっている。
特定の情動的質に関してはキヴィが強調しランガーは無視したが、曲を通じての感情の発展に関してはランガーが強調しキヴィは無視した。
お互いにいいこと言っているけど完全に情動について語り得たわけではない。
けど両者が「音楽が何かを表現しており、それをわれわれが認知している(=認知説)」という点で共通している。

ウォルトンの想像説の提起

ケンダル・ウォルトンは、“What is Abstract About the Art of Music?”(1988)で、認知説に反論する。

音楽が表出的であるのは、われわれが「音楽を聴くときに、自分たちが自らの感情を内観しており自覚している」と想像しているおかげである、とウォルトンは述べる。
そのため、音楽の表出性は、「特定の想像における情動的経験を喚起する力(power to evoke certain imaginative emotional experiences)」と関わっていなければならない。

ロビンソンが指摘するウォルトンの問題は、
少なくとも音楽だけ(テクストなし)を聴いているときに

  1. 音楽を聴いているときにウォルトンの言うように想像などしていないと主張する人について説明ができないこと
  2. 音楽が喚起する情動が細分化できないこと(ex. 「キリキリする感じ」でいえば、感情がキリキリしていること、実際に(お腹とかが)キリキリしていて痛いこと、想像された痛みとしてのキリキリを区別できない)

ウォルトンの功績は、実際の感情を喚起するという観点からでなく、想像的感情の喚起という観点から音楽的表出を説明しようとしたことである。

認知説と創造説の融合

レヴィンソンによる認知説と想像説の接合

ジェロルド・レヴィンソンも、“Music and Narrative Emotions”(1982)でウォルトン同様の指摘をしている。
しかし、彼は認知説的な立場も捨てていない。

レヴィンソンによると、ある人が音楽に対して「深い情動的反応」を持つのは、「一般的に音楽に表出されている情動を認識するおかげである」と主張する。
しかし、その認識はわれわれを共感的な情動の同定へと導き、われわれは「結局、想像において、音楽がそうする*3ように感情を持つ」と主張する。

「深い情動的反応(認識)」と「共感的な情動の同定(想像)」のどちらにおいても、心理・情緒的な構成要素があり、認知的内容(cognitive content)が存在している。しかし、共感的な方では、確定的な認知的内容が存在していないとする。

ロビンソンはレヴィンソンの態度を評価しつつ反論する。

  1. すべての情動的状態が同定可能な心理・情緒的構成要素を持つというのは全く明らかでない。
  2. 報われない熱情に関するある状況で経験する特定の感情は、おそらく怒りからくる絶望や強烈な悲哀と同じかもしれない。

情動というのは、認知的内容に存在するほど、心理・情緒的な構成要素には存在しておらず、熱情、絶望、悲哀の違いは、その状況をどう見るかに依っている。

しかし、レヴィンソンは、「音楽的な動きの中で具体化されている、情動を運ぶジェスチャー」が存在し、そのうちに報われない熱情(という情動)を認識することができるとする。さらに、その認識のおかげで、自分の報われない熱情という感情(という想像)に共感的に反応することができるとする。

レヴィンソンが言うのもわかるが、深い情動的認識の対象である認知的内容(cognitive content)をより明らかにしなければレヴィンソンの説は「ジェスチャー」「心理・情緒的構成要素」などの用語だけを残して曖昧なままになる。

他にも色々言ってたが省きます。

キヴィによる喚起説の批判

ウォルトンとレヴィンソンの議論は、想像的(レヴィンソンは切り取られた情動という言葉を使っていますが、めんどいので統一します)な情動を喚起する力が音楽にあるという点で共通していたが、その喚起という点にキヴィは反論する。

キヴィ曰く、音楽によって喚起される情動は、音楽の情動的質を知覚することとは全く異なる。悲しい音楽や悲しさを表出する音楽は、慣習によって悲しいとされている表出的輪郭を持っているからであり、音楽が悲しさを喚起するからではない。

必ず悲しい音楽がわれわれを悲しくさせるわけでもないし、想像的なもの以外に音楽によって喚起される現実の情動が存在するはずである。

例えば、鳴り響きの美しさだけに感動したとしても、それは立派な情動的な反応なはずである。
そして鳴り響きの美しさも認知的内容なはずであり、想像的なものではない。

しかし、前述の通り、音楽が持っている情動的質と楽曲に感動するときに情動が独立したものであることを指摘した点でキヴィは正しいが、楽曲による情動の表出が常に情動の喚起とつながっていないという主張は誤っている。

ここまでまとめましたが力尽きました。

また読み直して追記します。

*1:訳語ですが、emotionは情動、feelingは感情、affectは情緒、気分はmoodにするのが個人的に一番しっくりきます

*2:めんどいので全部表出にしました。表現は色んな文脈を引っ張ってきそうなのでここでは避けます。

*3:例えば、音楽が悲しくなれば僕も悲しくなる的に