病める無限の芸術の世界

芸術に言い訳する方法ばかり考えています。

バルト「作者の死」は解釈と意図に関する議論でない

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ツイッターで作者の意図に関する話がいろいろでてた。
トゥゲッターとかでまとめる元気はないので詳しくは「作者の意図」とか「分析美学」とかで検索してください。

分析美学以外の領域(たぶん文学理論とかですかね)だとバルトの「作者の死」がまずその代表として挙がることが多く、続いてフーコーとかブースとかビアズリーが挙がるっぽい。

分析美学は意図と解釈の問題を2010年くらいまで熱心に議論してきたので、そこらへんに関してはかなり含蓄がある。
日本語だと『分析美学入門』第七章と『分析美学基本論文集』に入ってるレヴィンソンの「文学における意図と解釈」でアクセスできる。

分析美学入門

分析美学入門

 
分析美学基本論文集

分析美学基本論文集

 

たしかにここらへんの分析美学の議論が作者の意図に関して議論してきたのは事実なんだけど、バルトとフーコーらの議論と同じ問題を扱っているかと言われるとかなり疑問がある。

バルトとフーコーの作者の議論は、解釈する際に作者の意図がどう関わるのかという問題ではなく、意味の確定の際に作者性(authorship)がどう関わるのかという問題にこたえようとしてるように思われる。
バルトの要点は以下になる。
  1. 作者というのはわれわれの社会によって生みだされた近代の登場人物である。
  2. 作者は死んだ。
  3. なぜなら、書くこと(エクリチュール)はあらゆる声、あらゆる起源を破壊するからである。
  4. そのエクリチュールが収斂するのが読者という場である。

 これが正しいかどうかはあれとして、少なくとも必ず言える意図主義の議論との違いがある。

意図主義の議論では、解釈をするときに作者の意図が参照可能か、そして参照しているとするとそれはどのような作者の意図か、が議論されてきた。
一方バルトの議論は、解釈(バルトがいうには批評)は作者の人格を求めて意味を確定しようとするものであり、それが誤りであると主張するものである。
ここで人格として言われているのは、「人格、経歴、趣味、情熱」である。(ロラン・バルト「作者の死」『物語の構造分析』所収, 花輪光訳, みすず書房, p. 80-81.)

作者の人格は意図に関連しているだろうし、作者の人格を求めることで意図に行き当たることもあるだろうけど、直接論じられているのは別のこと。

バルトの議論はどちらかというと、「解釈が作者性(authorship)*1によって意味の確定をめざす」というテーゼの否定に向かうもの。

やっぱり意図の参照に関する議論と作者性に関する議論は結構違う。
有名どこだと、Kelly, M. 2014. Encyclopedia of aesthetics. Oxford: OUP.に入ってるauthorの項目(執筆: Darren Hudson Hick.)だとそこら辺の議論は分けて紹介されているし、2010年以降くらいのauthorship関連の議論を見ても、意図の議論とは異なるものとして扱われている(そしてバルトはちょくちょくひかれる)。

ということで、バルトは確かにいわゆる「主体」を退けようとして「作者の死」を書いたのはわかるけれども、それが意図に関する議論かというとそれは微妙に違うのでは、と僕は思っています。

*1:これの訳語は作者性でいいと思いますが、中身で言われているのは「作者とは誰か」ということです。