病める無限の芸術の世界

芸術に言い訳する方法ばかり考えています。

ピーター・キヴィ「音楽におけるプラトン主義:ある種の擁護」

Kivy, P. 1983. "Platonism in Music." Grazer Philosophische Studien, 19: 109-129.

ウォルハイム⇒ウォルターストーフと続いてきた芸術作品の存在論におけるタイプ説の系譜。
1980年のジェロルド・レヴィンソンの「音楽作品とは何か」で普遍者であるタイプは創造される!という論が出て一大議論を巻き起こした。
それに対してキヴィはウォルターストーフらの厳格なタイプ説を擁護する。
結論は変わらないけどその議論の構築のされ方に違いがあるといういかにも分析美学っぽいいい論文。


大きな主張はこの論文にはないので、ポイントだけまとめます。

タイプ説への伝統的批判3つ

1つ目:タイプは抽象的存在だから聴くことができないよ、音楽作品がタイプなら音楽作品は聴けないよ説。
応答:「音楽作品xを聴く」というときには「音楽作品x(の演奏)を聴く」ということだよ。演奏は物理的存在だから聴くことができるし、その演奏で聴いた性質がタイプに帰属するのは問題ないよ。

2つ目、藝術作品は創造されるよ、普遍者は創造されないよ説。
マゴーリスが主に主張したことで有名(だけどマゴーリスは個別タイプとかいう普遍者でないタイプを想定している)⇒ジョセフ・マゴーリス「芸術作品の存在論的独自性」 - 病める無限の芸術の世界
だから芸術作品は普遍者としてのタイプじゃないよという説。
応答:芸術家は芸術作品を創造しているのではなく、本当は「発見(discover)」しているよ。
また、創造者(creator)という特権的な地位は、18世紀以降の産物なので、創造者という地位が芸術家から剥奪されても問題ないよ。一種の選択(select)説(違いはあとで)。

3つ目、藝術作品は破壊されるよ、普遍者は破壊されないよ説。
応答:破壊されないよ。全てのトークンがなくなってもタイプはなくならないからだよ。

タイプ説への新しい批判2つ

1つ目:音楽作品・演奏がタイプ・トークン関係であるとすると、複数のトークンのコラージュであってもトークンになり得るよ説。
応答:音楽作品であってもそうだよ。
それは確かに「良い」トークンにはならないかもしれないけど、トークンであることには変わりないよ。

2つ目:音楽作品はタイプだが、選択(select)しているよ説。
応答:発見の方が適切。
ウォルターストーフは、即興が演奏ではないという「当然の事柄」を当たり前のように持っているがそうではない。
ウォルターストーフはその選択が楽譜という(演奏を現実化するための)トークンとして現れてはじめて作曲が行われると考えているが、そうではない。
J. S. バッハの即興演奏を息子のK. P. E. バッハ(実在しない)が採譜したとして、それを採譜した場合、やはり作曲者はJ. S. の方である。

タイプ説の美徳

タイプ説の美徳としてよく語られるのは、われわれの語り口(facon de parler)に適合するということである。
それに先ほどのバッハのような事例の場合も、即興がバッハの頭に浮かぶとき、それが何のトークンかというともちろんその即興作品のトークンである。
このように発見説をとると、上の即興の問題もうまく片付く。

感想

音楽作品の存在条件、持続条件について特に語られてきた批判から、同一性条件まで、色んな反論を徹底的にインターセプトしていく感じがかっこいいと思いました。