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病める無限の芸術の世界

芸術に言い訳する方法ばかり考えています。

ピーター・ストローソン「美的査定と芸術作品」

分析美学 美学

P. F. Strawson. 1974. “Aesthetic Appraisal and Works of Art." in Freedom and Resentment, London: Mathuen, 178-88.

一応芸術の価値に関する文献らしいのだが、よくわからん&結構微妙な論文だった。

 美的評価はその他の評価から区別できるか?

ストローソンは、美的評価をその他の評価から区別しようと試みる。
日常言語学派のストローソンらしく、私たちの言語使用からそこに切り込む。
以下の言い回しを比較する。

  • 変:それを絵画として判断してないけど、美的な観点から精査してるよ。
  • 普通:美的な観点から精査してるけど、絵画としては判断してないよ。

美的な評価や精査には芸術作品として評価するということが含意されている、とストローソンは指摘する。

ここで新しい疑問:美的な評価の本質について、何か一般的なものが語られうるか?がでてくる。

作品享受の懐疑主義

まず、作品享受を二つに分ける。
ゲームに参加して「いいゲームだった」というときの「参加者の享受(participant-enjoyment)」
ゲームを見学して「いいゲームだった」というときの「観客の享受(spectator-enjoyment)」

美的なものに関わるのは後者だが、後者の楽しみを持つ類似の網目から美的評価を説明しようとすると、懐疑主義に陥る。
つまり、それは無限にどこまでも広がっていくし、目や耳といった感官を使うものと限定しても、美的評価とはいえないものが多く入ってくる。

ストローソンはこの懐疑主義に半分くらい賛成しておく。
楽しみの網目を広げないための基準が残り半分になる。

単一性

他の切り口を探すストローソンは、芸術の単一性(uniqueness)に注目する。
倫理的判断が一般に敷衍できることを要求するのに対して、美的判断はそうではない。
そこには、芸術作品が単一であるということが重要な要素として存在するのではないかと考える。

しかし、単一性を存在論から切ると、別な問題が生じる。
確かに全ての芸術作品は個体であるが、音楽や文学にかぎらず、絵画や彫刻も一種のタイプである((から、個別だけではありえない。
つまり、タイプであるから、単一性を論点にするのは無理が多い。

ストローソンは、その単一性が(ストローソン的には芸術作品としての評価を含意する)美的評価と関わっているという点に焦点を移す。
例えば、モーターカーがモーターカー判断されるときには、「早いか」「効率よく走るか」などの点から判断され、その「早いか」などの判断に関与する特徴は、どのモーターカーを判断するときでも共通しているはずである、と仮定する。
しかし、美的判断だと少し異なる。
確かに質的に同じくらい良い2つの絵画というのは存在しうるが、そう判断するときの美的判断に関与する特徴は、2つの絵画で異なるはずである、とストローソンは考える。
そこから、この美的評価の特徴に関与するのが、単一性であるとストローソンは考えた。
ここから存在論に立ち戻り、ストローソンは「芸術作品の同一性条件(criterion of identity)は美的査定に関与する特徴の全体性(totality)である」とする。

つまり、ストローソンは芸術作品が単一なのは存在論的にだけでなく、存在論的かつ形式的に単一であると考える((。

また、美的精査の記述的条件として、なにか芸術作品の価値を高めるような性質に注目する関心(interest)を持っていないことなどをあげる。

あと、美的精査の際に使われる「美しい」とか「繊細」とかの性質自体は非評価的なものだが、美的精査の判断の対象となる分類的名称(classification name)として機能しているとして、評価的判断((に組み込まれているとする。

感想

小並感ですが、存在論から評価、価値の話までしていて、単純に議論が追いにくかった。
あと美的判断は芸術作品としての判断っていうのは偏狭な直観のような気もする。