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病める無限の芸術の世界

芸術に言い訳する方法ばかり考えています。

スティーブン・デイヴィス「ヴァイオリンかヴィオールか?フレットの理由」

分析美学 音楽哲学 美学
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Davies, S. 1990. "Violins or Viols?: A Reason to Fret." The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 48(2): 147-151.

レヴィンソンのオーセンティシティ論文(ジェロルド・レヴィンソン「真正な演奏と演奏手段」 - ertb)に対する反論論文

雑なまとめ

デイヴィスとレヴィンソンは、「真正な演奏とは、作曲家の確定的な意図に忠実な演奏である」という命題に基本的に合意している。

合意していないのは、「演奏手段(performance means)」の取り扱い。

この論文でのデイヴィスはキヴィと同じく純粋プラトン主義をとる。
つまり、純粋な音構造(創造されえないし、演奏手段も関係ない)こそが音楽作品であるとみなしている。

レヴィンソンは、修正プラトン主義をとる。
つまり、音楽作品は、「t時にxによって指し示されたS / PM(音 / 演奏手段)構造」だとする。

デイヴィスは演奏手段の指示がどれくらい確定的なのか疑問視し、この音楽作品の存在論の扱いが真正性の議論を分かつものなのではないかと論じる。

この論文、デイヴィスの主張は主にキヴィに対する訂正とレヴィンソンに対する反論から成っているんだけど、それがすごい微妙。
結論として、レヴィンソンがいう「演奏手段は作品の一部」には反論するけれど、レヴィンソンがいう「真正性のためには演奏手段を守ることが大事」には同意している。

導入したのは、正確性(accuracy)と慣習性(conventionality)。

真正な演奏は、理想的に正確なものだけど、理想的に真正でなくても正確ではありうる。(だから演奏手段が真正でなくともその演奏として正確だから作品の同一性に演奏手段は関与しない)

それで、正確かどうかはかるために、慣習性が必要になる。
たとえば、ある歌曲がある歌人のために書かれていたとして、それがある歌人以外の歌人に歌われてもかまわないのは、慣習がそれを決めているからである。

そのため、意図の確定と同様に、慣習性の確定を行うことで、正確性を確定していき、そして真正性も確定していく。

結局レヴィンソンの「作品の同一性を保つために演奏手段を守る」から「作品の演奏をより正確で真正なものにするために(慣習的な)演奏手段を守る」に変化しているだけのようにも思える。

そんなに強い主張はない、いかにも分析美学っぽい論文だった。

次回の現音美は*1

10月7日18時半から、藝大で行います。
文献は、これで出てきた Kivy, P. 1983. "Platonism in Music: A Kind of Defence." です。
Doddの論文読む前に読んどくのは悪くない。
詳細⇒現代の音楽美学勉強会
連絡先⇒keitoiwakiri[at]gmail.com

*1:宣伝です。