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病める無限の芸術の世界

芸術に言い訳する方法ばかり考えています。

ステファノ・プレデリ「グッドマンと譜面」

分析美学 音楽哲学 美学
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Predelli, Stefano. 1999. “Goodman and the Score.” The British Journal of Aesthetics, 39(2): 138-147.

グッドマンは記譜法(notation)に基いて音楽作品の同一性について語ったが、そのことはこれまで反直観的であると批判されてきた。

プレデリは、その批判はグッドマンの理論と共存できるのではないかと論じる。

 

はじめに

ネルソン・グッドマンの『芸術の言語』で提示された見解によると、ある出来事(event)が音楽作品wの演奏とみなされるのは、それがwの譜面(score)に対応している(complies with)ときのみである。
このとき、譜面は演奏(performance)と対応し、それが正しく記譜法にのっとって行われているときに譜面は作品(work)であるとされる。

この理論に対して、これまでレヴィンソン(Levinson)らによって批判されてきた。
つまり、演奏が譜面に対応しているとき(=音程やリズムが誤りなく上演されているとき)だけ演奏が作品のものである(of a work of art)というのは、あまりに反直観的であるという批判である。

それに対してプレデリは、直観的にグッドマンの理論を訂正しつつ、グッドマンのその反歴史的スタンスに則る記譜法の理論が歴史的な要素を包含することも可能であると論じる。

譜面と記譜システム

譜面が演奏に対して同定(identification)の機能を持つのは以下のときである。

1. 作品wの譜面は、wの演奏としてみなされる出来事の集合(class of events)を必ず決定する

2. ある演奏(そして特定の記譜システム)を与えられた時、譜面は単一に回収可能である

このような結びつきは、グッドマンにとっては、楽譜が記譜システム(notational system)における<文字>であるという事実に基づいている。
<文字>はその対応物(its compliants)と結びついているが、その関係は以下の限定に基づく。

1. 非多義性(nonambiguity): <文字>のトークンは、異なる対応物の集合と結びつかない

2. 素であること(disjointness): 異なる対応物の集合は区別される(重なり合わない)

3. 決定可能性(decidability): ある物体が与えられたとき、ある<文字>に対応する集合に属するかどうか、理論的に決定可能である。

以上のようなグッドマンの記譜法の理論*1は第一に理想的な譜面の理論である。

普通の譜面(ordinary score)の多くの要素は、重複[余剰]している(redundant)ため、不必要なものだとグッドマンは考えている。

例えば、速度記号(tempo words)は、厳密なリズムの規定をしないので必要ないとしている。

楽器の特定

音程やリズム*2の他に記譜法に付け加えるものをプレデリは探る。

C♯とD♭という<文字>は、同一の音程を指示する。
キーボードの譜面であればその音を出す音の現れ(sound-occurrence)aは二つの<文字>に対応してしまう。
しかし、ヴァイオリンの譜面の場合であればその音を出す音の現れ(sound-occurrence)bとcは、それはC♯とD♭の別々にしっかりと対応する。

これは一見問題になるが、グッドマンは以下のように解決する。

この説明が取りこぼしているのは、各々の演奏が1つの楽器だけもしくは別な楽器だけで行われている*3ので、2つの<文字>のどちらかが空の<文字>であると考えられ、空の<文字>は異なる素な<文字>を作るために異なる楽器の特定と結びついている、ということである。(LA, 182)

そうすると、楽器の特定を記譜法の中に組み込むことが可能ではないかとプレデリは考える。

「複合的な<文字>(composite character)」考える。そこではxは楽器の特定であり、y は慣習的なフォーマットでの音程のしるしである。

このように、楽器の特定が必要だとするが、そこからさらに改変する。

もし楽器の特定及び音色の特定が倍音のパターンと適切に結びついたなら、それは音程のしるし(indication*4)のために考案され))たミニマルな記譜システムであろう。

純粋に聴覚的な(purely aural)質について考える際に、このような楽器に関する特定は不可欠である。
レヴィンソンは、それっぽい音色が出ていればよいのではなく、ある想定される楽器から音色が出ることが重要だとする。

つまり、演奏のうちに生み出された音調(tone)も因果的に(causally)適した種の物体[楽器]に関係しているはずである、という直観がレヴィンソンにはある。

このレヴィンソンの直観は、グッドマンの想定と矛盾しない。
そして、楽器の特定を、音色のしるしにすぎないとするのではなく、楽器の集合と結びついた<文字>として再解釈することは、記譜性の必要条件を違反しない。

x(y)という形の<文字>は、xは楽器の特定、yは音程のしるしであるが、xによって示されるタイプの楽器によって生み出される音を含む対応物の集合と結び付けられるだろう。

更に必要とされる条件

譜面、作品、その演奏の関係に関するグッドマンの分析は、演奏に含まれる「制作手段」に関する事実がある音の出来事はある作品の事例とみなされるかどうか決定するのに関わっている。

演奏が(ある音楽作品)Wの演奏であるためには、制作された音の出来事と(作曲家の)創造的活動との間に多かれ少なかれ直接の繋がり(connection)がなければならない。

譜面:S、楽器のしるし:I、タイトル:Tそして、音程:p1~p3を考える。

譜面Sが音の出来事:eを表示するのは、以下の時でありその時に限る。

i:eがp1~p3に対応するように作られた音の並びを含む。

ii:eがIに対応するタイプの楽器によって生み出された音の出来事である。

iii:Tに対応する出来事に適切に関わっている音の出来事である。

 

結論として、レヴィンソンの直観的な考えをグッドマンの議論に付け加えても問題はない。

まとめ

面白かった。単純にすごく勉強になった。

僕が特に面白いと思ったのは、ケッヒェル番号についてところで、ケッヒェル番号はある楽曲のタイトル(例えば《クラリネット協奏曲》)を指示している、言語哲学者としての筆者らしい指摘である。
グッドマンの考える言語の記号モデルだと、それに肉付きがあるのかないのかで色々議論できるのではないかと思った。
つまり、そのケッヒェル番号が音構造やその他を指示することも、ある文脈と条件においては可能なのじゃないかなーと思った。

実際、僕たちはあまりに幅のある演奏をある作品のものであると認識しているし、それがサウンドだけで成り立っているというのは明らかにおかしい。
そうなると、ある演奏がある作品のものだと認識するのはその他の多くの文脈(タイトルの指示の有無、その楽曲に関する知識、和声理論などの知識などなど)に関わっているわけで、存在論でどのような存在者なのかを議論すると同時に、そのような認識に関する話も必要なんじゃないかなと思った。
そうでないなら、グッドマンの理論は音楽の同一性に関して完成していると言ってもいいわけだし、そうでないのはやっぱり直観に反するから。
それなら、その直観にあたる部分がどれをどの程度規定しているのかを言う必要があるのでは、もしくは、それを分けて考えているという明記が必要なのではと思った。

 

次回の現音美は!*5

8月21日に藝大でやります。
文献は、Levinson, J. 1990. "Authentic performance and performance means." in Music, Art, and Metaphysics, 393-408.です。

新参加者の方をお待ちしております!

*1:これ以上知りたい場合は今のところ原文を読むしかないです。ここではそれをまとめるのはやりませんが、『筑波批評2013春』のグッドマン要約は本当にまとまっているのでとても参考になります。

*2:グッドマン美学における音楽の同一性という文脈では、同一性を規定するリズムといったときに指示されているのはBPMメトロノーム記号のような、厳密に規定されるもの。

*3:演奏の途中で楽器が変わったりしない

*4:indicateはLevinsonでも重要な単語なのでこの論文で訳すのがすごく難しかった。暫定的にしるしとしている。

*5:宣伝記事分けるのめんどいのでこれをやっていきます。