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病める無限の芸術の世界

芸術に言い訳する方法ばかり考えています。

モーリス・ヴァイツ『美学における理論の役割』

分析美学 美学
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Weitz, Morris. 1956. “The Role of Theory in Aesthetics.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, XV: 27-35.

 

古典論文を読むの回。
ヴァイツもしくはウェイツは聞いたことあったけど、喋りを聞くにウァイツみたいな発音をしている。けどWikipediaにはウィーツって書いてあってよくわからん。

ここでは、分析美学入門*1にしたがってヴァイツでいく。
邦訳があります(まだ持っていないので早めに買います)。

M. Weitz「美学における理論の役割」|まつなが|note

 

ヴァイツの議論は、これまでにあった美学理論の欠点をそれぞれ指摘し、なぜそれが失敗してきたのか考え、ウィトゲンシュタインの「家族的類縁性」を援用することで、芸術が本質的に定義できないとします。
内容は邦訳を買えばわかるし短い論文なので、面白そうなところだけピックアップします。

 

適用可能な閉じた概念

ヴァイツは基本的に、概念が開いているという理由で、芸術が定義できないとするのですが、特定のものには閉じた概念も適用できるとする。
それは例えば、「ギリシャ悲劇」には適用できる。
ギリシャ悲劇」というジャンルは出尽くしたものであり、これ以上今後作品が増えることはないので、現存している作品群にうまく適用できるものであれば、閉じた概念であっても利用可能である。
ただし、それを実在定義として「悲劇」一般にまで敷衍するのは誤り。

 

評価的用法と記述的用法

「芸術」という語には、記述的(descriptive)なものと評価的(evaluative)なものがある。
記述的なものには認識の基準(criteria of recognition)が、評価的なものには評価の基準(criteria of evaluation)が必要である。
そして、評価の基準に基づいて、特定の性質や条件だけを好むような定義を、尊称的定義(honorific definition)だとする。
これまでの多くの美学理論は、尊称的定義に陥ってしまっている。

 

尊称的定義の価値

しかし、尊称的定義にも価値がないわけではない。
自身の理論を実在定義だと誤って認識していたのか、尊称的定義だと正しく認識していたのかに関わらず、重要なのは、それらが巻き起こしてきた議論である、とヴァイツはいう。
その何が素晴らしさの基準になっているのかという論点についての議論こそが、美学理論を重要なものにしてきた。
なぜなら、批評は作品単体については同様のことができるかもしれないが、芸術一般に関する理論として議論がされてきたからこそ、美学理論が素晴らしさや評価に関しての整理がされてきたからである。

 

所感

ヴァイツの議論で指摘できそうなところを一点だけ。
ヴァイツは、これまでの定義は、実在定義とするには、取りこぼしがあったり、余剰があったりするとのべた。
そして、それこそがこれまでの理論の失敗であるとした。
しかし、ヴァイツはその時点で、なにか実在定義を前提しているように思われる。
それが前提されていないなら、取りこぼしや余剰も判断できないのではないか。


ヴァイツ論文はどこ読んでも面白かったです。
勉強会は2人で執り行われましたが。

この勉強会で分析美学に関する古典を読んでいるので、ぜひ参加してください。

分析美学鬼嫁会

 

 

*1:神本です。これを読まずに美学をやっていると名乗ることは出来ない。

 

分析美学入門

分析美学入門