病める無限の芸術の世界

芸術に言い訳する方法ばかり考えています。

渡辺裕『西洋音楽演奏史論序説』第一章

渡辺裕. 2001. 『西洋音楽演奏史論序説:ベートーヴェンピアノ・ソナタの演奏史研究-』春秋社, pp. 68-91. 第一章のみ

 

日本語で読めて、かつ現代の音楽美学に接続できる文献で、さらにその接続先も邦語文献であることが望ましいというきつい条件の中選んだ本。
とてもまとまっていてかつ平易な文章で、僕自身読んでいてすごく面白かった。
その一方で、この章全体として見たときにはどうなのと思える箇所もいっぱいあった。
まず要約して、おかしいところを後で述べる。


前置き

「作品(work, Werk)」概念は、美学的考察にとって重要な概念であることは、音楽にとっても言える。
西洋近代以来の、作者の個性と作品を結びつける考えを乗り越えようとする試みがある*1
その議論の渦中にあるのが、「楽譜」という概念である。
かつて、作品を論じるということは「楽譜」を分析することであり、作品を演じることは「楽譜」を音にするということであった。
同じ曲の演奏といってもその範疇には差異のある演奏が存在している。
このように「楽譜中心主義」とも言えるこの考え方では説明できない部分がある。
そういった背景のなかで、音楽作品概念について論じたものをまとめる。


第1節:「図式」としての楽譜

ロマン・インガルデンは、音楽作品について、文学作品とのアナロジーによって語る。
文学作品は、テクストによって完結しているものではなく、意味内容や指示対象の不確定箇所(Unbestimmtheitsstelle)を持つものである、と考える。インガルデンは、同様に音楽作品も楽譜や音響といったモノ自体ではなく、不確定な箇所が存在するという。
それを埋めるのが受け手の解釈であり、それによって立ち現れる純粋に志向的な対象(rein intentionaler Gegenstand)であるのが音楽作品であるとした。
ここで挙げられるインガルデンの問題点として、文学作品における読み手の立場をそのまま演奏者に振り当てたというものがある。
そこでは聴衆の問題は背後に退いている。
また、演奏家による解釈に対して、具体的な記述をしていないので、どこまでが作品概念を壊さず、どこからが作品概念を壊した演奏になるのかといった具体的なことは語られない。
しかし概括的に見てインガルデンの考えには、楽譜は図式(Schema)にすぎないとした功、そしてそうすることで楽譜を中心にしつつも実質的に空疎な作品概念がうまれることになるという罪があるように思われる。


第2節:楽譜と作品の同一性

ネルソン・グッドマンは音楽作品の同一性は楽譜によって保証されるとしたが、インガルデンとは対照的に、より具体的な条件を求めようとした。
つまり、いかなる要素が関与的で、いかなる要素が関与的でないのかを論じようとしたのである。
グッドマンは、音の高さや長さ、メトロノーム記号などは、必ず守られるべき楽譜の本質的な構成要素であるとした一方で、テンポの指示(Allegro、Andanteなど)に関する記号などは、付随的な要素であるとして、作品の同一性には関与しないとした。
こういった具体的な規定を目指そうとしたグッドマンだが、それが成功しているとは言いがたく、現に私たちはミスタッチのある演奏やリズムが正確でない演奏もある作品の演奏として聞いているように思われる。
その作品の「内」と「外」の境界は、少なくともグッドマンが規定しようとしたものよりかは、不分明であるように思われる。


第3節:演奏様式の変化とうつろいゆく作品

ある音楽作品のあらゆる演奏に共通して存在するような要素は存在せず、西洋音楽において、特定の作品の多様な演奏を結び合わせている核になっているのは実は楽譜ではない、としたのがホセ・バウエンである。
バウエンは、ジャス楽曲である《Round Midnight》の演奏を100種類以上あつめ、それら全てに共通する要素が何一つも存在しないことを指摘した。
そのうえで、ある曲の演奏というのはウィトゲンシュタインの「家族的類縁性」という関係のうちにあるとした。
また、演奏の流行や時代による違いについても述べていて、その演奏集合の外延はあるソリッドな形を持ち得ず、時代とともに変遷していくものだとした。
そして、楽譜の役割について、2つに分けて述べている。
まず、ジャズにおけるリードシードが存在し、それを(忠実に)なぞる演奏を取り上げ、それはその巨躯のカリカチュアにしかならないとした。
次に、トランスクリプションという演奏を忠実に採譜するやり方をあげ、それは演奏の特殊性がそのまま楽譜にあらわれているという両面性を指摘し、そのいずれかが作品を規定する存在になることはないとした。
結論として、バウエンは、楽譜の中に有る不変の要素の存在を退け、人々の描く作品像は演奏の歴史の積み重ねによる協同的な記憶の総体であるという考え方を提示している。


第4節:プラグマティクスの中の「作品」概念

ほとんど第3節の繰り返しなので短く。
バウエンが問題にしているのは、歴史とともに作品がもつ「その曲らしさ」や「その作曲家らしさ」が変化しているということである。
そうすると、やはり作品そのものを楽譜のうちに固定化されたものとして見出すことは出来ない。
「その作曲家らしさ」を持つ演奏というものはなく、作品が「その作曲家らしさ」を持つこともまたない。

以上が要約になる。
指摘とともに自分の立場を明らかにする。

 

指摘
第1節

インガルデンの問題としては、聴衆の問題を退けたことにもあるけれど、じゃあどこに聴衆を入れればよいのかという問題もある。

聴衆が聴取するのはここでいう現実の鳴り響きなわけであるが、その際に文学作品の読み手のように直接作品を解釈しているのかという問題がある。
そして、文学作品の読み手がまた作品を直接解釈しているのかという点にも大きな疑問がある。
僕が思うに、聴衆は作品を直接解釈することは不可能であるし、同様に文学作品においても直接解釈することは不可能である。
難しい問題なので、ざっとだけまとめると、聴衆においては、音にもたらされた鳴り響きを聴くことしか出来ないので、一度楽譜を解釈している演奏者の解釈を想定して解釈を行っているということは言えるように思われる。
また、文学作品の読み手も、テクストの不確定な箇所を解釈で補う際に、テクストから補うのではなく、おそらく文脈(その作者の他の作品や作者のインタビューなど)を解釈に含めているように思われる。
そうすると、演奏者も楽譜をそのように解釈していることになり、結論として、作品だけを直接解釈することは不可能で、かつ文脈にのっとった解釈をしている、ということは正しいように思われる。

第2節

僕は1つでも音が違えばそれは異なる作品だという強い立場を取りたいと思っている。
それはグッドマン的ではあるんだけど、条件があって、それはある作品の音構造(それは楽譜に記されている場合が非常に多い)から意図的に異なる音を選択して演奏をしているならば、という条件である。
理由はいろいろあるけれど、音の違いを認める立場をとると、なんとなく作者の意図みたいなものを認めなければいけないように思われるというのが一番の理由である。
音楽作品において作者の意図は、楽譜を通して見えるものではないように思われるし、さっきの節で言ったように作品を直接解釈することはできないのではないかという立場をとっているので、この強い立場に行き着く。

第3節

ここが問題ありの章で、1章全体の中では、まずロマン主義的な楽譜中心主義が批判されるという流れの中で、いかにもインガルデンとグッドマンは欠落がある論を述べているような紹介がなされる。
そのあとで出てくるバウエンのこの理論は少なくとも前の節よりかは説得力があるように説明される。
だけど、バウエンの言っていることは演奏に関することで、作品概念については強く語っていないということに注意しなければいけないように思われる。
たしかに、流行の演奏もあれば、かつて演奏としてみなされていたものがそうでないと思われることもあるし、それによって「その曲らしさ」が変わってくることもあるだろうが、それは僕らの認識(原文では認識と使われているけれど、僕は判断という言葉の方が内実に近いのではないかと思う)の問題であって、それが誤っているという事態も十分に想定される。
インガルデンやグッドマンは、作品概念がどういうものであるか規定しようとしているのに対して、バウエンは演奏を取り上げて、その変遷と我々の認識について語っているように思われる。
バウエンの理論を守りながら、グッドマンの理論も守ることもできるように思われる*2
バウエンの理論には、隠れた前提として、私たちの認識がその作品概念を形作っているという考えがある。
それは端的に誤っているとするのは難しいので、第1章の中で、インガルデン・グッドマンとバウエンという対立で語られてもよい気がする3。
これまで作品の定義や存在論が続いてきたのに、いきなり認識論にすり替わったものを同様の文脈で語る渡辺さんのやり方はすごく恣意的だと言わざるを得ない*3

第4章

ここも恣意的で、原文を精読しないとわからないことなのかもしれないが、一応指摘すべきところは指摘する。
それは、「その曲らしさ」という考えが、後半に行くにつれて「その作曲家らしさ」という考えに徐々にすり替わっていくことだ。
これはおかしくて、バウエンは演奏を取り上げて説明しているから、「その曲らしさ」が時代とともに変わっていったというのは分かるのだけど、「その曲らしさ」が変わったからといって「その作曲家らしさ」というのは変わらない気がする。
「その曲におけるその作曲家らしさ」という弱い意見であっても、それは演奏から見出されるものではないので違う*4
「作曲家らしさ」が演奏を通して変わるのならば、クラシック音楽の演奏がすべてbpm200を超えるスピードで演奏される時代が来たとして、作曲家は全て「疾走感のあるようならしさ」を持つのだろうか。
それは誤りであろう。

 

まとめ

このように、全体の構成から指摘すべきところがあったけれど、全体的に面白い内容だったし、次に接続できそうな観点がいっぱいみつかったので、もっと勉強したい。

*1:これはロマン主義以来の傾向で、音楽はともかく美術史の中では表現主義(expressionism)といわれる。

*2:そうすると、演奏されるものはほぼ全て別の作品であるというとても強い主張をしなければいけなくなる。けどグッドマンはそう言ってるんだからいいじゃんと。

*3:これは渡辺さんの博論が本になったものらしいので、主張の流れの上で対立させたと思うのだけど。

*4:「歌ってみた」が端的で、もっと分かりやすく言えば歌がある作品を考えればわかるけれど、バウエンが言うように同じ作品の演奏だと捉えているものでも、様々なものがある。《愛の哀しみ》だって「愛の喜び」を歌っているように演奏することはできる。それでも、その曲らしさが変わる中で、その作曲家らしさは変わるだろうか。そうではないように思われる。

これはベートーヴェンについて語る本なので、章の終わりに作曲家を問題にするのは、論の流れとして綺麗なのはわかる。