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病める無限の芸術の世界

芸術に言い訳する方法ばかり考えています。

清塚邦彦「写真を通して物を見ることーK・L・ウォルトンの透明性テーゼをめぐってー」

分析美学 美学
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清塚邦彦「写真を通して物を見ることーK・L・ウォルトンの透明性テーゼをめぐってー」
(山形大學紀要, 人文科學15(2), 19-50(302-271), 2003-02-17)

 

 

ウォルトンは分析美学に関する論文を多く執筆している*1
「ごっこ遊び論」が美学の語彙になっている。
日本でウォルトン研究といえば、田村さんと清塚さんという二人が主立っていて、今回はそのうち清塚さんの論文を扱う。


この論文では「透明性テーゼ」の是非を想定される反論に答える形で示したあと、清塚さんが思う課題を述べる構成になっている。
「透明性テーゼ」について噛み砕くと、写真はあくまで視覚の補助になるものであり、図像の平面を透過しているかのように物を見るものであるという主張である。
そして図像(picture)*2と呼ばれるものの中で、これは写真には適用されるが、絵画には適用されない。
「透明性テーゼ」に関するロペスによる反論とウォルトンの再反論をまとめる。


反論1:虚構の媒体としての写真

現実にはない虚構の媒体(フィクション映画など)となりうる写真を現実を見る道具とするのは論理に破綻があるのではないか。
回答:「透明性テーゼ」が主張するのは写真はあくまで視覚の補助になるという点であり、実際に我々は役者の演技などを見ているという点で「透明性テーゼ」の主張は誤らない。
さらにウォルトンは踏み込んで<見ているかのような想像>は虚構以外にも浸透していることを指摘する。家族写真に写っているすでに亡くなったお爺さんが笑っているのを見て、「おじいちゃんが笑っている」と言葉にすることも多いが、それはこの浸透の具合を示すものである。

反論2:写真の見え方と実物との違い

白黒写真における実際の色彩との剥離という点、露光の調整における白飛びや塗り潰れという点で、直接に事物を見る経験になりえない。
回答:実際に事物を見るときと写真を見るときの経験が異なるというのが、視覚補助の役割なので、「透明性テーゼ」の誤解を起こしている。

反論3:写りの悪い写真

ピンぼけを起こすなどの可能性がある写真を見ることは、現実を見ることだとは言えない。
回答:これを正しいとすると、近視乱視などの視覚異常を伴う視知覚も現実を見る純正な視知覚ではないということになる。

反論4:製作者の意図

道具や構図の選択が必要な写真制作において、製作者の意図と写真は密接な関係にある。その点において、写真は絵画と同様であり、写真を通して物を見るということを額面通りに受け取ることはできない。
回答:そのような意図を反映した写真を見る場合でも、写真を通して物を見る真正さを失うものではない。写真を通して見せられるものに関して、恣意的な「見させられ方」をしていたとしても見せられているものを見ることに関しては真正な視覚は保たれる。また、恣意的な見させられ方は「化粧」や「バスガイドの指差し」などにも見られることで、特に写真に限ったことでもない。

反論5:修正や合成その他

修正や合成を施せば現実に存在しない写真を作ることが可能である。これは反論4と同様に、写真が現実のありのままを示すものであることを否定する。
回答:合成や修正が施された後の写真を見る際にも、視覚の補助としての機能は保たれる。モンタージュやコラージュに対しては、その部分に対して透明性は保たれているし、ネガを修正した写真を見るのは汚れたガラスや磨りガラス越しに物を見ることと同様である。透明性にも程度があり、その程度次第では絵画となるものもある*3

反論6:承前

写真を見るだけでは修正や合成が施されているかはわからない。目の前の写真がどのような写真であるかを理解するためには背景知識が必要であり、私達はそのような背景知識をもとに何かもっともらしい想像をし、写真を見ているのではないか。
回答:この反論の前提になっている、背景的な事実の存在が視覚の真正さを損なわせるものという考え自体が誤りである。具体的な例を出すと、走る電車の車窓から見たぼんやりとした人影を「人間」か「人間の描かれた絵看板」か「人のように見えた建物」であるか判断する場合、初めは『「人間」か「人間の描かれた絵看板」か「人のように見えた建物」』を見たと判断するが、後にそこにあるのが「人間の描かれた絵看板」であると知った際には、「人間の描かれた絵看板」を見たと知覚したようになる。このように、人間の視知覚自体、多くの背景的知識に成り立っている*4


反論7:時間差

写真を見る道具だとみなすと、わたしたちは写真によって同時的ではない過去の出来事を見ることができる。それは不自然ではないか。
回答:過去を見ることは何ら不自然ではない。肉眼で宇宙の星を見るときのそれがあてはまる。

反論8:承前

事物が発射(反射)する光がわたしたちの目に届くまでに必ず遅延があるが、わたしたちは必ず一点の過去だけを見つめている。写真を用いると、過去のいつの時点でもわたしたちは見ることができる。それは不自然ではないか。

回答:引用(p.29)

この反論が暗に前提にしているのは、《ある事物を見ることは,その事物が発した光が見る人の目に届くことと不可分だ》という想定である。通常の視知覚の場合でも,光はたかだか網膜に届くだけであり,そこから先は複雑な電気信号に変換されて最終的に視覚経験が成立する。こうした別の信号系への変換がもっと早い段階で行われていけない理由はどこにあるのか。目下の反論はその肝心な点に触れていない。*5

反論9:ある種の空間情報の欠如

何かを見ることには「見るもの」と「見られるもの」との間の位置関係の把握が含まれている。顕微鏡や望遠鏡ではこれは正常に行われているが、写真を通してものを見る経験にはこの位置関係の把握が伴われていない。それゆえ、絵画と同様に「見ているかのような想像」をしているのではないか。
回答:ある事物を見ていながら、自分とその事物との位置関係がわからないという事態は珍しいものではない。鏡像を見る際に、それを実物だとみなすと位置関係の把握を間違うこともあるし、鏡像から実物の位置を割り出すためには、鏡の性質に関する知識が必要である。望遠鏡に関しても、倍率などの概念がなければ位置関係を把握することができない。

 

前半はこれまで、後半では写真と絵画を区別するものとして、「反事実的な依存関係」を挙げる。
撮影現場が別様であれば出来上がる写真も別様である、というのが写真におけるこの依存関係である。
しかし、絵画は何をどう描こうかという画家の意思との依存関係を見せるので「志向的な反事実的依存関係」を示すという。

 

*1:「kendal walton」のwikipediaページを見るとその凄さがわかる(長い)http://en.wikipedia.org/wiki/Kendall_Walton

*2:訳語の選択をするまでには至ってないのでなんとも言えないけど、清塚さんがやってる「絵(picture)」って訳はどうなんだろう。とりあえず文中では図像を使ったけど…。「ごっこ遊び理論」とかも微妙な訳な感じがする。

*3:本文中では二人の人間の顔の中間になるような合成画像が挙げられていたけど、ゲルハルト・リヒターとか、モーフォングの方が例としてわかりやすい気もする。

*4:認知心理学だったり神経学に詳しくないのでなんとも言えないが、ウォルトンが言うように、「人間」を見た!「絵看板」を見た!というふうな形で人間が知覚を行っているのならばそのようになるけれど、そのままだと知覚についてもう少し言及しなきゃいけなくなると思うので、「視知覚」は「視知覚による認識」くらいのニュアンスにした方がよいのでは。

*5: 噛み砕くと、図像がわたしたちのもとに浮かぶのは網膜ではなく脳であるが、その図像化が物体として先に表れていては何がいけないのかという感じ。図像化されたものを見る際にも同じプロセスが踏まれているわけで、またそこで色々な変化が行われるかもしれないけれど、そこは以前の質問で答えた視知覚の幅広さで対応するという形なのか。